映画「アマデウス」感想文

この映画「アマデウス」は、天才(アマデウス)と秀才(サリエリ)と凡人たち(皇帝とその他)3者の織りなす人間模様を描いている。この天才と秀才の違いであるが、まず天才とは「神に選ばれし者」であり、彼らは神の子であるが故に人間の一般的常識を全く欠いている。それは、映画の中のモーツァルトの放とうぶりから分かる通りである。これに対し、サリエリの才能は自分の努力によって得たものであり、また彼は社会に生きる人間としての常識に縛られている。そして、第三の凡人たちは、アマデウスの崇高なる才能を真には理解せぬ者どもである。彼らはモーツァルトの曲に拍手を送るが、さしでがましくも編曲を求めるのだ。

私は、この悲劇の発端はサリエリのみが真にモーツァルトの才を理解できたという所にあると思う。自分よりはるかに優れた才能を持つ者が居る。もし彼が高貴なる人格者であったとしたらサリエリも心底からモーツァルトを愛し得ただろう。しかし、サリエリはモーツァルトの才能は愛したがその人格を愛することはできなかった。そしてどうあがいても、モーツァルトの才に追いつけぬと分かった時、愛は憎しみに変わるのだ。

先生によれば、あの黒服の男はサリエリではない(史実は)というが、僕は少なくともこの映画中ではあれはサリエリだったと思う。私が中でも感動したのが、二人が協力して作曲していくシーンである。サリエリは一時の憎しみにかられて、モーツァルトを死の淵まで追いつめてしまったが、この共同作業のうちでサリエリはあらためてモーツァルトの才を目にし、それを愛する気持ちの方が強くなってしまった。そのあたりの心のかっとうがスクリーンを通じて私の胸を打ち震わした。特に、モーツァルトに「君だけが友人」と言われた時の、サリエリの心情はもはや筆舌につくしがたいものであったろう。こんな修羅場を経験したら、発狂するのも無理なかろう。

また、この映画は同時に神への挑戦を描いている。そこには、あのニーチェの超人思想の影響すら感ぜられる。(もっともニーチェが生まれるのはもっと後のことだが、映画の脚本にということ)ニーチェは「ツァラトゥストラはかくかたりき」の中でこう言っている。「神の姿は醜い者だ。それを見た以上、神を殺すしかない。そして、人は神の代りに超人となるのだ」と。これはそっくりこの映画に当てはまると思う。しかし、サリエリは超人たるにはあまりにも凡庸すぎたのだ。よって、神の代理たる重圧に耐えきれず発狂したのだ。

そして最後に私が得た教訓は、
「天才とは99%の霊感と1%の努力である」
そして、
「秀才とは99%の努力と1%の霊感である」
ということだ。

 H6年9月26日、高校の音楽期末試験の回答。映画「アマデウス」の感想文。


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  • F・マーリー・エイブラハム,トム・ハルス,エリザベス・ベリッジ
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今から20年前、高校の音楽の授業で映画「アマデウス」を全編見せられて、期末試験ではその感想文を書くという課題があった。当時我ながら秀逸な回答が出来たと思って、答案用紙を取ってあったのが発掘されて旧ブログに転載しておいた。

作者のシェーファー卿の訃報に接し、久しぶりに自分で読み返してみたけど今となってはなんだか厨二病くさい青臭い文章に思えるな。高校の時に見て以来見直す機会はなかったけど、今でも自分の中の「アマデウス」観は変わっていない。改めて見直したら考えが変わるかも知れないけど。

『アマデウス』の作者ピーター・シェーファー卿が死去 (女性自身) - Yahoo!ニュース 『アマデウス』の作者ピーター・シェーファー卿が死去 (女性自身) - Yahoo!ニュース

では