ブログ記事をURL貼らずにスクショツイートで拡散するのやめて欲しい

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さて

Twitterで定期的に自分のブログURLをエゴサするのを習慣にしている。Twitterでどの記事がシェアされているか、どんな感想が書かれているかを確認するとともに、リツイートしたりツイートに返信したりして地道にブログの読者拡大を図っているのである。

不審なツイートを発見

先日のこと、いつものようにTwitterで自ブログのURLを検索したところ、以下のようなツイートが目に入った。

はてなブログ大賞2015も受賞した こちら の記事(未読の方はぜひ御一読アレ)についてツイートしてくれているのだが、なにか様子がおかしい。

「リンクも貼れ」?

「元記事のリンクがなかった」?

一体どういうことだ?と思って上記ツイートをしてくれた方のタイムラインを遡ってみたところ、以下のツイートを発見した。

なんということでしょう。当ブログの記事がスクリーンショット4枚でほぼほぼ全文引用シェアされているではあーりませんか。

このツイートどうやらバズったようで、リツイートが6600以上、ファボも4500を超えている。しかし残念なことにこのツイートには私のブログ記事へのリンクが貼られていない

つまり少なくとも6600人がスクショで私の記事を読んだことになるが、そのほとんどが記事の全文を読むこともなく、その記事を一体誰が書いたのかも知らないまま終わってしまっているということだ。

上記にツイートを紹介したお二方は元記事を検索してみつけてくれたようだけど、わざわざそんなことまでして全文を読もうと言う気概を持った人間がそうそういるとも思えない。

せっかく時間をかけて書いた、しかも個人的にもお気に入りの記事がこのような形で消費されるのは納得ができない。

スクショで拡散することの問題点

自分は別段PVを追い求めているわけではないけれども、ブログを書いている以上はひとりでも多くの人に自分の記事を読んで欲しいなとは思っている。スクショで拡散されてしまうと、「この記事面白いな、他にどんな記事があるんだろう?」とブログ内を回遊してくれる人が無くなってしまう。これは寂しいものだ。

さらに言えば、スクショシェアする人が恣意的に部分部分を切り抜くことになるから、筆者の意図とは全く異なる内容が見た人に伝わってしまうリスクもある。政治家の発言を恣意的に切り出し批判するマスゴミのようなことも、悪意の有無は別として行うことが出来るのだ。

切り出しどころか、スクショに部分的な改変を加えることも容易であり、読む側はとっさに原文を確認する術を持たないから簡単に騙されてしまうことになりかねない。

↓Tweetのスクショシェアにおける問題点が書かれた記事↓

件のスクショシェアをしてくれた人物のプロフィールを見てみると、御自身もブログを書かれている様子。自分が同じことをされたとしたら嫌な気持ちにならないだろうか?

また、今回自分は偶然発見できたけれども、スクショでシェアされてしまうとGoogle Analytics等を使ってもそれを知ることが出来ないだろう(そもそもブログへアクセスしていないわけだから)。もしかするとあなたのブログも同様の被害に遭っている可能性があるかと思うと、薄ら寒い気持ちになりませんか?

URLを貼らずにスクショツイートが拡散されちゃう問題

実はこの「URLを貼らずにスクショツイートが拡散されちゃう問題」はすでに2年前に警鐘が鳴らされていたようで、以下の記事を発見することが出来た。

リンクではなくキャプチャ - 若年世代の「シェア」で問われるメディアの生き残り戦略(朽木誠一郎) - 個人 - Yahoo!ニュース

【ホントにいた】記事のURL貼らないで、キャプチャで拡散する人たち - 人の職業を笑うな

朽木誠一郎さんの記事のほうから一部引用させていただく。

そのような現状で、さいきん目につくようになったのは、若年層のソーシャルシェアの方法が変化していることです。特にこれはTwitterなどで顕著で、おもしろかった情報を共有する際に、記事などのリンクをシェアするのではなく、キャプチャをシェアするというものです。

インターンの大学生に聞いてみると、LINEなどでもこのように、おもしろかった記事のおもしろかった部分だけを、画像として送り合うのが一般的になりつつあるといいます。

若者の長文読解力が落ちているのか、すぐに結果を求めようとする傾向のせいか、理由は分からないが、URLを貼らずにスクショだけで記事をシェアするのは今どきの若者の一般的な行動原理のようだ。

D・カーネギー先生の教え

他人のブログ記事をスクショしてファボを稼ぐなんて泥棒と一緒じゃないか!と、スクショツイートした人物に対して恨みにも似た感情が心の中に渦巻いていたのだが、今どきの若者の一般的な行動と知って、もはや致し方ないという寛容な気持ちになってきた。

ワタクシの 尊敬する人物 が尊敬しているD・カーネギー先生は以下のように述べられている。

人を非難するかわりに、相手を理解するように努めようではないか。どういうわけで、相手がそんなことをしでかすに至ったか、よく考えてみようではないか。そのほうがよほど得策でもあり、また、面白くもある。


人を非難するのは、ちょうど天に向かってつばをするようなもので、必ずわが身にかえってくる。


理解と、寛容は、すぐれた品性と克己心をそなえた人にしてはじめて持ちうる徳である。


すべてを知れば、すべてを許すことになる。

D・カーネギー先生の教えに触れて、大空が澄み渡るようにワタクシの心から攻撃色が消えていった。

すべてを知ったワタクシはすべてを許すことにしたのであった。

では