オリジナルであることの難しさ

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さて

自分は観に行った映画の感想をブログに書く事がよくある。

映画を見終わった直後は自分の中に言語化しきれないモヤモヤした感情の塊のようなものがあって、それをパソコンに向かって文字化していくことで、朧げだった概念が徐々に形を為していく。その作業は丸太棒の中からノミをふるって仏像を削り出していく作業にも似ている。

そして自分は観に行った映画について他の人が書いた感想記事を読むのも好きだ。自分が気付かなかった点を指摘してくれたり、全く違った見方を示してくれたりと興味が尽きない。

他人の意見に惑わされる

ところが問題が起きるのは、自分の感想を書きつける前にうっかり他人様の感想記事を読んでしまった場合だ。自分の中にあったモヤモヤとした感情が、そこに文字の形となって記されているのだ。

「あぁ、俺もこれ思った」

「そうそう、ウマイ事言いよるなぁ」

とついつい読み耽ってしまう。

だがこうなってしまうと、もう自分自身の言葉で記事を紡ぎ出す事はできない。自分自身の感想を記しているつもりでも、他人様の言葉を借りて書いているようにしか思えなくなってしまうのだ。

先ほどの仏像の喩えを借りれば、他人がミノを一太刀二太刀入れた仏像を自分の作品と思えるかどうかという事。

だから最近は、自分自身の記事を書き上げるまでは他の人の感想記事を読まないようにしている。

真にオリジナルであるという事はかくも難しい。他人の意見を聞いてしまうとどうしてもそれに惑わされてしまう。これには正の意味も負の意味もあり、他人の意見に無条件に同調してしまう事と、他人の意見にこれまた無条件に反発してしまう事を意味して言っている。

車輪の再発明

話は変わるが、はてブコメントを読んでいるとよく

車輪の再発明

という指摘を見る事がある。

その話はすでに語られているよ、誰それさんがいついつの記事に書いていたよというように。

それは英語の学習法かも知れないし、プログラミングの学習サイトの紹介かも知れないし、傑作漫画ベスト100の記事かも知れない。

しかし、この世の中に真にオリジナルなものなどあるのだろうか。

旧約聖書の伝道の書の中に、以下のようなくだりがある。

9: 先にあったことは、また後にもある、
先になされた事は、また後にもなされる。
日の下には新しいものはない。

10: 「見よ、これは新しいものだ」と
言われるものがあるか、
それはわれわれの前にあった世々に、
すでにあったものである。

  • 伝道の書 第1章より

指摘した人が原典として引き出した記事でさえ、「車輪の再発明」である可能性は否定できないではないか。

さいごに

他人の意見に惑わされないためには、耳を塞いで孤独に自分自身と向き合うしかないだろう。真に優れた創作物は孤独の中からしか生まれないのではないだろうか。

そして、「車輪の再発明」については恐れる必要はないと思う。それがパクリではなく自分自身の成果物であると胸を張って言えるのであれば。

今日はこれだけ。

では

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