映画「セッション」を観た。狂気に対抗するには自らも狂うしかない。
さて
映画「セッション」を観たのでそのことについて語るとしよう。
日本公開:2015年
脚本・監督:デミアン・チャゼル
音楽:ジャスティン・フルビッツ
出演:マイルズ・テラー、J・K・シモンズ、メリッサ・ブノワなど
2015年に公開されるや否や異例の大ヒットとなり、ジャズを主題にした作品と言うことでジャズミュージシャンの菊地成孔氏と映画評論家の町山智浩氏の間で喧々諤々の大論争が巻き起こり話題になった。
↓町山智浩氏のブログ記事↓
(菊地成孔氏のブログは削除済のようで見つからなかった)
公開当時は観に行く余裕がなかったのだが、Netflixで観られるようになったので今さらながらようやく観た。監督の次回作、「ラ・ラ・ランド」に今非常に大きな期待を持っているので、監督の前作を観て予習したかったと言うのもある。
映画「La La Land」の予習のために今からNetflixで「セッション」を観ます。
— iGCN (@iGCN) 2017年1月7日
狂気の音楽教師フレッチャー
あらすじは
ジャズ・ドラマーを目指す19歳の少年アンドリュー(マイルズ・テラー)はアメリカ最高峰の音楽学校であるシェイファー音楽学校の生徒。ある日ひとり部屋に篭ってドラムの練習をしていると、学校の中でも一目置かれた存在であるフレッチャー教授(J・K・シモンズ)が現れ、自身のバンドに参加するようリクルートされる。自分の才能が認められたと浮かれ上がるアンドリューだったが、フレッチャー教授の狂気に満ちた指導が始まるのだった・・・
というお話だ。
フレッチャー教授が、最初は優しげにアンドリューに話しかけたりして父性的な印象を与えるのに、レッスンが始まるや突然豹変してぶち切れ出す。楽器を投げつけたり往復びんたを食らわしたり、「テンポが速い、いや遅い、俺のテンポに合わせろ!」などと無理難題を突きつけてはアンドリューの自尊感情を徹底的に痛めつける様はサディスティックですらあった。
禿げ茶瓶の風貌と言い、年齢のわりには筋骨隆々の肉体と言い、目の前で恫喝されたら本当に恐ろしいだろうなと、映画を観ながら薄ら寒い思いをした。なんとなく映画「フルメタル・ジャケット」に出てきた新人教育担当の鬼軍曹のことを思い出したり。同作では精神を病んだ新兵によって鬼軍曹は射殺されるのだけど、「セッション」はそんな生半可な展開は見せない。
目的は手段を正当化するか
映画後半でフレッチャー教授が敢えて厳しい指導をする理由をチャーリー・パーカーを引き合いに出して語る。かつてヘマをしたチャーリー・パーカーに対してジョー・ジョーンズがシンバルを投げつけて怒り狂ったが、それを気に奮起したパーカーは一流ミュージシャンになれたと言う。それに倣って敢えて生徒を叩きのめすことで這い上がってくる一握りの天才を見出そうと言うのだ。
自分もかつて小学校のころにブラスバンド部に所属してトロンボーンを吹いたりしていたけど、趣味でやる音楽のレベルと超一流のミュージシャンたちが魂を削って紡ぎ出す音楽とが全くの別物であると言うことは分かる。
超一流の才能を見出すためにはフレッチャー教授は手段を選ばないと言うことだが、その強引な手法によって傷つき、音楽を諦め、あるいは精神を病んで自ら命を絶つにいたる無名の若者たちがいたと言うことも本作では描かれている。
そう言った犠牲を払ってでも、たったひとりの天才ミュージシャンを育て上げることができればフレッチャー教授は満足だと言うことだ。まさに「目的は手段を正当化する」というマキャベリズムの権化。
狂気に対抗するには自らも狂うしかない
フレッチャー教授の厳しい指導により、少しずつ精神を病んで行くアンドリューだが、ついに破綻してしまい退学処分を命じられる。無為な日々を送るアンドリューだが、ある日フレッチャーと街で再開したことをきっかけに再びドラムと向き合うことになる。
映画のラストはフレッチャーが新たに結成したバンドに参加したアンドリューがコンテストに出演する一連のシークエンス。このライブでのアンドリューの演奏、そしてそれに呼応して鬼気迫る指揮をするフレッチャーの様子は、二人して狂気にのみこまれているようにしか見えず、背筋が凍る思いがした。
この数分間のライブシーンの狂気を観るだけでも本作を観る価値が十二分にあるように思う。
映画を見終わってから改めて宇多丸さんの評を聞いたところ、このシーンのことを「悪魔との契約」と言っていたけど、言い得て妙だなと思ったり。
さいごに
音楽映画と言うよりはサイコ・スリラーに分類しても良いような作品。若干28歳で本作の脚本・監督をこなしたデミアン・チャゼルの才能は本当に素晴らしい。最新作の「ラ・ラ・ランド」はゴールデン・グローブ賞で7部門受賞したと言うし、今から楽しみである。
90/100点
では